サンブリッジの歩み
ここに掲載した文章は、サンブリッジグループ創立30周年の際に当社が刊行した記念誌から転用したもので、設立した1965年から1995年までの軌跡を綴ってあります。
できる限りリンクを張って理解しやすい読み物に仕立てましたので、ご興味のある方は是非ご一読ください。
最終回となる今回は、ひとつの節目を迎えた30周年編です。
第一章
第二章
第三章
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夜明編
橋本義男がサンブリッジを創業したのは1965年だが、創業までの半生、わけても戦後の荒廃下からの不屈の生きざま、自主独歩、人との出会いを抜きにしては今日を語り得ない。 橋本義男が生まれたのは1923年、あの関東大震災の年だ。小学校2年で満州事変、 中学2年で支那事変、そして神戸三中から神戸商科大学・予科に進んだ1941年には、 あの太平洋戦争突入。学窓から軍隊へ。橋本は戦雲の時代に少年期から青年期を。戦後も大学への復学で始まった。 敗戦の傷痕深く、混乱下、希望の光が見えない時代だったが、死と隣り合わせの戦争を生き延びたからこそのバイタリティと連帯感の強さ、これはその後の橋本の原点となった。1945年の終戦時が22歳。全寮制下、自由に過ごした予科時代の2年半が人格形成上にも交友関係にも大きな意昧を持った。 1947年10月、大学を卒業して商社の兼松に入社。だが、当時は戦後の統制管理下、商社活動も制限され、自由な貿易など望むべくもなく、わずか4年足らずで退社。 決意して「一から出直し」と京都の生糸商に再就職。このあと、軍隊時代の上官との思いがけない縁で、スポーツシューズを手がけていたオニツカ(現アシックス)に入社。同社の発展期を支える開拓分野のひとつ、それがやがて独立時の事業ともなる「ボウリング用品」に繋がっていく。
オニツカは鬼塚喜八郎氏によって1949年に創業されたスポーツシューズの会社だったが、戦後のスポーツ復興の動きがみられるなかで独自の分野であった。 軍隊時代の出会いだけながら、橋本は乞われるままに1955年6月より同社の社員となり、期待どおりの働きを見せた。すでにスポーツシューズメーカーの基礎は一応できていたものの、販売網の強化、社内体制の整備、企画力の向上、生産の効率化など課題が多く、 中でも販売網・拠点の強化が急務と、橋本は東京で陣頭指揮をとり拠点(土地購入、会社設立)を固めると関東、東北エリア拡販をはかった。事業の進展とともに新本社屋が完成。社員スタッフの強化で、国民スポーツの普及、主要競技スポーツの本格化の中でスター卜した「頂上作戦」がマーケティング戦略と連動し始めた。 1964年の東京オリンピックに向けての国内スポーツシューズ市場は膨らみ、また、その一方では新規事業、つまり経営の多角化を推進する時期を迎え、1961年には資本金4倍増資。単なるスポーツシューズメー力ーから次のステップへ向けて、橋本は代表取締役副社長に就任。ニュービジネス開拓への意欲を燃やした橋本は1962年10月、2ヶ月の米国市場調査の視察旅行に出かけた。 ニューヨーク、ワシントン、ボストン、シカゴ、ミネアポリス、シンシナティ、サンフランシスコ、ロサンゼルス。米国メーカ一訪問、さまざまな事業分野での有力な情報と交渉、その成果多き視察旅行の終わり近くにロサンゼルスでボウリングと出会った。 日本ではブランズウィック、AMF、ボウルモアの米国メーカー3社のニューマシン(オートマティック)が相次いで上陸開始の当時だったが、本場の現地視察を重ね、余暇レジャー到来の日本にボウリング事業は最適と、橋本は確信した。 -
誕生編
米国から帰国するやボウリング事業の着手を進言。これを足がかりに多角化を前進させることとなった。米国オートマティック・ボウリングの第1号は1961年大阪ボウリングセンターだったが、ボウリングシューズもマシン、ピン、ボールと一緒に輸入され、 当初の日本のボウリング場は施設も用具(ボール、シューズ)も全て一括セットで用意された。しかし、輸入元の木型では日本人の足に合わず、まずは、ボウリングシューズの自社生産から着手することになった。 このシューズをベースにボール、ピン、バッグなどのボウリング用品を取り扱う体制を整えた。この時期、多角化策を進める経営面では上場問題など難しい課題もあり、社長と橋本との間に考え方の違いがどうにもならなくなり、 ついに1965年4月、ボウリング事業は今後、私が引き継ぎたいと申し出て橋本は正式退社した。ビジネスマン・橋本の「自分の目に賭けてみたい」との決意から創業に踏みきった。1965年5月20日、橋本は自宅の庭にプレハブ倉庫を建て、家の応接間を事務所にサンブリッジ商会を設立。 設立時のスタッフは、橋本義男以下、川西広明、小林克彦、岩田英雄、藤本進、岡田清和、西見登で、このうち藤本のほか4名がオニツカのボウリング部門を担当していた。 もともと、社名にはサンリッチを考えていた橋本だったが、創業者の名前を入れた方がとのアドバイスもあり、現在のサンブリッジとなった。この年、橋本は42歳、半年も持てばとの周りの声にかえって自信を強く持ち直した。
サンブリッジ商会は、スター卜から多忙を極めた。経理担当以外の全員が、それぞれのブロックを担当して営業活動を展開。ボウリング業界が着実に拡大しつつあったが、経済の動きを通してもまだまだ先行き不透明だった。 当時のボウリング場数は、1964年度で125センタ一・3,663レーン。ちなみに、創業初年度の1965年度は202センター・5,413レーンだった。主要都市で産声を挙げる新設センターのほとんどがAMF(伊藤忠)、 ブランズウィック(三井物産)、ボウルモア(兼松・大福機工)から、設備から用品までの一括導入に依存していた。 したがって、メー力一依存のままの情報・知識というケースが多かっただけに、当初から本場アメリ力のボウリングビジネスの成り立ちに目を向け、コンサルティング機能を発揮していたサンブリッジ商会の存在価値は大きかった。 -
仕入編
スタート当初、ボウリング用品の仕入については、シューズはオニツカの総代理店だったため問題はなく、ピンは米国ヴァルカン社、バッグは外注生産でクリアできた。しかし、問題はボールで、高品質で注目されていた米国製マンハッタンを仕入れるのにやや手間取った。 兼松ボウルモア社がボウルモア機種センターのハウスボール用にマンハッタンを付けていたので、同社宛に取り扱いの打診をしたが良い返事はもらえず、結局、マンハッタンボールとピンを日本にセールしようとしていたエンゲル氏(米国ユニバーサルスポーツ社の代理店)と合意ができ、在庫分(400万円)を買い取って、仕入ルートを確保した。 一般ボウラー向けにマンハッタンボールを初めて売り出すことになったが、プ口になる前の矢島純一・中山律子の協力を得て、初期ボウラーの絶大な支持を得た。
国産ボールの開発はサンブリッジの重大使命であった。国産ボールの製造を始めたところはすでに2・3社あったものの、コアの材料がコルクだったため、ラバー使用の米国製ボールに比べ反発力でかなり劣っていた。 製造技術力で米国製ボールに負けないためには、住友ゴム(ダンロップ)と合同で試作を開始。 同社も本格的な開発の段階まで進行し、ダンロップ製ボールの販売代理権はまだ駆け出しのサンブリッジに与えられた。 粕谷三郎、岩上太郎、矢島純一などプ口1期生となる人たちのアドバイスと、厳しいチェックを重ね、高機能国産ボールの完成にこぎつけることができた。 -
営業拠点編
1966年5月、法人化に伴ない社名を株式会社サンブリッジ(資本金200万円)に変更。その翌年の5月には本社事務所を神戸市漬磨区鷹取町へ移転。ボウリング場急増、業界沸騰でサンブリッジの業務・販売エリアも共に拡大した。 また、ボウリング復興の担い手として、サンブリッジは1期生を中心に、男子プロ10名、女子は中山律子プロと正式にアドバイザリースタッフの契約を交わした。 初の全国規模による全日本選手権(JBC)が開催された1963年の翌年には、最初の地域ボウリング場協会となる関西ボウリング場協会が設立され、1965年4月には社団法人日本ボウリング場協会(BPAJ)、 1967年1月には社団法人日本プロボウリング協会(JPBA)が設立された。さらに、その2年後の1969年には女子プロボウラーも誕生し、すべてが右肩上がりだった。 ちなみに、JPBAが誕生した1967年には全国ボウリング場のレーン総数が1万レーンを突破(520センター、11,049レーン)していた。
テレビの普及台数が2,000万台に達した1967年3月に北海道サンブリッジを設立。その前年の10月には、東京サンブリッジの開業に続く営業拠点づくりとして、1969年から1970年にかけ、九州、広島、大阪、名古屋、金沢、宇都宮、さらにはロサンゼルスにまで営業所を開設した。 ボウリング場とボウラーの急増で広がるマーケットに対応した販売体制の拡充がその狙いだった。自動車保有台数が1,000万台を突破、GNPが世界第2位と、池田内閣の所得倍増計画の予想以上の効果を背景にボウリング人気は爆発的に広がり、サンブリッジの売上げも倍々ゲームのように伸びていった。 1970年8月、中山律子プロが東日本月例でTVパーフェクトを達成し、大変な話題となった。 そんな大ブームの中、1971年に東京の用賀に自社ビルを建て、東京支店を移転。1972年10月には西宮に待望の8階建ての本社ビルを竣工。両ビルは物流の効率化を考え、名神・東名高速道路を挟んだインターチェンジの近くに建てた。
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支援編
サンブリッジの使命は常に最高の機能・品質を開発して、ボウリング場とボウラーに提供すること。この企業ポリシーから、プロ協会(JPBA)誕生以前から多くのトップボウラーのアドバイスを仰ぎ、 また、彼らも自らのプロ活動のために友好的に協力してくれた。数十年を超える盟友の矢島純一プロは、プロ以前の1966年1月のBPAAオールスターに出場し(432選手が出場)準決勝進出の快挙をやってのけた。 当時、弱冠19歳だったが、この時の活躍が日本人ボウラーの本場米国挑戦の口火となり、日米交流の上でも大きな意昧を持った。 矢島純一プロと同様に、創業時から熱いハートのボウリング人同志の付き合いで、橋本義男に意気投合した粕谷三郎プロも、本場のメジャートーナメントであるBPAAオールスターへ一緒に勉強しに行こうと、橋本を誘った。 その1969年第28回BPAAオールスターで、須田開代子プロが日本人として初めて準優勝という快挙をやってのけたが、 その影には橋本の献身的なバックアップがあった。日本のために、日米交流とボウリング発展のために、同業他社と契約しているボウラーでも厭わずバックアップする姿勢は、サンブリッジがプロボウリングを支援し、プロトーナメントを自ら開催していく企業姿勢へとつながっていく。
サンブリッジ主催のプロツアートーナメントは、わが国のJPBA発展期に集中的に開催され、年間の全トーナメント(約100)の男女優勝者ばかりを集めて日本一を決定するサンブリッジ招待キング & クイーントーナメントは注目の的となった。 目玉はキング & クイーンの栄冠を獲得した男女プロを本場米国ボウリング界に1ヶ月研修視察させるもので、1971年、1972年共に同大会はサンブリッジがスポンサーとなり全国ネットでテレビ放映された。 -
興亡編
過密時代に突入した。盛況のプロボウリング興行も過密スケジュール、年間賞金総額も2億円を突破、並木恵美子プロが初の1,000万円(賞金)プレイヤーとして注目を浴びた。 7名のスタッフでスター卜したサンブリッジも、わすか7年で売上高41億円、従業員200名弱の注目企業に急成長。しかし、こうした異常人気はピークも早いが、急降下も早かった。 オイルショックという世界経済の心棒が狂うと、みるまにどん底へ叩き落とされたのだった。 その不安はすでに1973年に表れ、売上げダウン、過剰設備、過剰在庫、深刻な経営危機が現実のものとなっていった。わずか半年の間に381センター、12,410レーンが姿を消し、サンブリッジの場合も急速な市場崩壊で最大の試練に立ち向かうこととなった。多量の在庫を抱え、自社ビル完成直後のダメージ。 やむなく人員整理やビル建設の借入金返済や多数の辞職者への退職金の支払いなど、資金繰りは行き詰まるばかりで銀行の融資は受けられず、橋本以下の幹部は眠れぬ夜が続いた。 ただ、オイルショック以前までに人員整理を終えていたことは、転職をスムーズに進め、事態の収拾面で最悪は避けられた。
厳しい大不況。1973年中に50名まで整理したものの事態はさらに悪化、多難をきわめた。1974年には、いつ不渡りが出てもおかしくないほどの窮地に立っていた。この時期の毎日がどんなものだったかは、言葉では説明つくものではない。しかし、かつての良き出会い(人間性・心・信頼)が活路を開く新局面を導いてくれた。 わがサンブリッジを投資代理店にする住友ゴムのトップが財務内容をつぶさに調べたうえで、サンブリッジをこのままつぶすのは惜しいと、バックアップに転じてくれたのだ。西宮の本社ビルをはじめ、サンブリッジ所有の不動産を買い取り、資金援助にも手を差し伸べてくれた。 この後、住友ゴムが株式51%を持ち、同社の関係会社として命脈を得たサンブリッジが新しい復興への道を必死に歩むこととなった。 わが国ボウリング界も混迷期に入り、組織間の不協和音も聞かれ、ボウリング場は人影もまばらのどん底現象を呈していた。住友ゴム傘下になった当時のサンブリッジは橋本(社長から会長)自らもテニス用品販売のセールスに没頭。 マイナス成長から低成長期の経済環境の中で、経済好転の可能性とボウリング復興の動向を信じ、サンブリッジ再興へ満を持して耐え、その日を祈る毎日だった。そんな中、巷では廃業センターが続出していた。 -
復活編
ボウリング業界の自然淘汰が進む一方で、ボウリングの魅力を見直そうとニューボウリング(健康ボウリング、トリムゲーム)の キャンペーンが始まったり、須田開代子プロが中心になってジャパンレディースボウリングクラブが発足したりした。 また、第8回アジア競技大会の正式競技種目にボウリングが採用され、エントリー枠の半数(男女各3人)で出場した日本が金メダル2個を獲得するニュースも反響を呼んだ。 そんな1979年、ボウリング業界も復興基調で安定し始めた。サンブリッジ再興への決断の時が近づいたと、橋本はロサンゼルスでの全米スポーツ用品ショーとハワイでのBPAA(米国ボウリング場協会)コンベンションに出席した。 この視察調査の狙いは、再興サンブリッジの取り扱い部門拡充のリサーチでメインだった。すでに、日本のボウリング場数は激減しており、過密ピーク時の何分の1かに小さくなった市場で、従来のようなボール、シューズ、バッグなどの商品構成だけではビジネスは難しいと判断した背景がある。 そこでレーンオイルやメンテナンス分野まで業務を広げられないかと、DBA社のレモピケッティ社長とオイル塗布マシンのセンチュリー社のドンイーガーマン社長と会って交渉した橋本は、両社からOKをもらった。ボールについても素材開発の進む米国では、ラバーからプラスティックやウレタンのニューボール時代を迎えていたので、新メーカーと話をつけた。 この渡米の成果を帰国後、住友ゴムのトップに報告。ボウリング市場の開拓を一からやりたいとの熱意を伝えた。「橋本さん、ボウリング事業をおやりなさい。お任せします。」の明快な答えで決断はGOとなった。
1980年12月、株式会社サンリッチインターナショナルが用品の輸入商社として発足。(正式発足は1981年1月19日)新生・サンブリッジは、サンリッチインターナショナルとともに本社を神戸市葺合区(現中央区)に置き、 1981年4月、溌刺とスター卜した。新生・サンブリッジに参加したいと申し出た社員15名(残りの35名は在籍していた会社に留まった)と、サンリッチインターナショナルの社員を含めた総勢20名が営業活動を開始した。 かつては老舗といわれたものだが、オイルショック以前の上得意先はほとんどなく新規のボウリング場開拓に奔走。 しかし、長年のサンブリッジの名前と信用はクチコミとなって新規センター関係にも浸透していた。旧交を温めるように取引がスムーズに再開し、再出発となった1982年度の売上げは4.8億円にとどまったが、翌年には9億円まで伸ばすことができた。
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アライアンス編
1995年1月17日午前5時46分、阪神大震災で神戸三宮駅前の本社ビルが倒壊。 これにより同年2月28日、新神戸駅前の新神戸ビルへ本社を移転することになった。かねてから計画していたサンブリッジグループ30周年記念コンベンションの開催がこれにより危ぶまれたが、海外及び国内の提携パートナー会社の協力もあり、同年9月12日、震災の傷跡が残る地元で神戸復興の願いを込め、何とか開催する運びとなった。 当日、阪神大震災の余震があり、新幹線が遅れるなどのハプニングもあったが、 会場となった新神戸オリエンタルホテルのコンベンションルームには、BPAJ代表、 ボウリング場経営者、プロボウラー、ドリラーら数百人のボウリング関係者、報道記者が参加。また、米国からはDBA社のレモピケッティ会長をはじめ、エボナイト社、アメリ力ン社、クオリティ社の各社幹部、 国内からはシャープ、ダイフクといった提携パートナー会社、そしてサンブリッジグループ契約プロも詰めかけ、広い会場が詰めかけた参加者で一杯となった。 まず、最初に同時通訳を介しながら、米国レーンメンテナンスの第一人者であるレモピケッティ会長が、ウッドレーン及びシンセティックレーンのレーンメンテナンスについて、現在米国で行われている最新情報を紹介。プロジェクターを使用した内容は、2時間では足りないくらいの熱の入った講演となった。 午後からは海外及び国内提携パートナー会社によるプレゼンテーションを行い、今後のボウリングセンターの方向性やニーズを紹介した。また、会場内にはボウリングレーンが設置され、各社ブースでは新商品の詳細な説明、話題商品のデモンストレーション等を行った。 現在の最先端技術開発を進める米国と国内のトップ企業を提携パートナーに、サンブリッジグループが30周年のビックステップを力強く未来に踏み出す、記念すべきコンベンションとなった。 -
普及編
新時代のボウリング場、アミューズメントセンターへの総合的な供給体制づくりを進めたサンブリッジグループは、1993年に株式会社サンクオリティを発足。米国クオリティ社の代理権を得たのを機会に設立した。業務はマシンパーツの取り扱いがメイン。 この株式会社サンクオリティを含めた3社によるサンブリッジグループは、ボウリング場の新増改装あらゆる面での業務や、経営コンサルティングまで応じられる基盤機構を持つに至った。目前の21世紀に向けて、情報ネットワーク活動をきめ細かく、より良き経営実現への提供サービスの努力を続けることから、サンブリッジならではの使命課題をクリアしていこうというわけだ。
新時代ボウリングは、まず情報化とスポーツ化で、新展開を見せ注目の的となった。最先端技術を駆使したコンピュータボウリング(オートマティックスコアリングシステム)の普及は、瞬く間に若い世代層を魅了した。 米国のとあるメーカーはIBMの大型コンピュータを使用したが、サンリッチはパソコンで十分対応できると考え、シャープとの共同開発で実現化に成功。 1987年に低価格のコンピュータシステムとして販売を開始。同システムの普及率はその後、なんと!70%以上に達した。その同じ年、生活協同組合・コープこうべと、さらには1989年に日本生活協同組合連合会とも取引きを開始。 当初は輸入商社としてスター卜したサンリッチインターナショナルは総合的に業域を広げ、レーンメンテナンス事業、リニューアル工事、コンピュータ導入事業へと前進させた。新設ボウリング場から、増設およびリニューアルボウリング場まで、プランニングはいうまでもなくマネージメント、コンサルティングと運営関連に幅広く対応しサービスできるようになった。 1993年度に手がけたボウリング場の新増設リニューアル工事は17件(同年度の最大規模の工事はテイセンボウル泉の新設36レーン)。業域を広げての新事業を重ねるうちに設計建設業、機械メーカーなどの各分野大手との連携体制を確立させていくところとなった。 そしてスポーツ化、1994年10月に広島で開催された第12回アジア競技大会では、8年前の第10回大会以来となるボウリング競技正式種目再開催となり、サンブリッジグループは優れた用品や技術サポートを提供。 また高いレベルが要求される厳正なFIQ公式基準地をキープし、均等不変のオイルコンディションづくりに全面協力した。サンブリッジグループ派遣のドリラーの菅野光男氏もサポート。地元日本にとって大変重要な意昧を持つこの大会で選手も活躍。 日本は最終的に金メダル4個を獲得した。ボウリングサイエンス結集のアジアのオリンピックにふさわしい高度な運営管理が高く評価され、大会事務局よりサンブリッジグループに感謝状が送られた。 -
30周年編
1995年1月17日午前5時46分、阪神大震災で神戸三宮駅前の本社ビルが倒壊。 これにより同年2月28日、新神戸駅前の新神戸ビルへ本社を移転することになった。かねてから計画していたサンブリッジグループ30周年記念コンベンションの開催がこれにより危ぶまれたが、海外及び国内の提携パートナー会社の協力もあり、同年9月12日、震災の傷跡が残る地元で神戸復興の願いを込め、何とか開催する運びとなった。 当日、阪神大震災の余震があり、新幹線が遅れるなどのハプニングもあったが、 会場となった新神戸オリエンタルホテルのコンベンションルームには、BPAJ代表、 ボウリング場経営者、プロボウラー、ドリラーら数百人のボウリング関係者、報道記者が参加。また、米国からはDBA社のレモピケッティ会長をはじめ、エボナイト社、アメリ力ン社、クオリティ社の各社幹部、 国内からはシャープ、ダイフクといった提携パートナー会社、そしてサンブリッジグループ契約プロも詰めかけ、広い会場が詰めかけた参加者で一杯となった。 まず、最初に同時通訳を介しながら、米国レーンメンテナンスの第一人者であるレモピケッティ会長が、ウッドレーン及びシンセティックレーンのレーンメンテナンスについて、現在米国で行われている最新情報を紹介。プロジェクターを使用した内容は、2時間では足りないくらいの熱の入った講演となった。 午後からは海外及び国内提携パートナー会社によるプレゼンテーションを行い、今後のボウリングセンターの方向性やニーズを紹介した。また、会場内にはボウリングレーンが設置され、各社ブースでは新商品の詳細な説明、話題商品のデモンストレーション等を行った。 現在の最先端技術開発を進める米国と国内のトップ企業を提携パートナーに、サンブリッジグループが30周年のビックステップを力強く未来に踏み出す、記念すべきコンベンションとなった。